「相沢君!」
祐無に追いついた香里は、隣に並ぶと同時に声をかけた。
走って追いかけていたので、少しばかり息が上がっている。
「どうしたんだ香里? そんなに息を切らせて」
「ええ、ちょっとね。……相沢君、今日の放課後、空いてる?」
息が続かないので一言一言区切りながら、香里は宣言通りに祐無を誘った。
「特に予定がある訳じゃないが……どこに連れてってくれるんだ?」
勘のいい祐無は、先に言われる前にどこに寄り道して行くのかを訊いていた。
しかし香里はそれが気に入らなかったようで、若干顔をしかめる。
「そんなんじゃないわよ。ただ、ちょっと二人だけで話をしたいだけで」
「なら今日もまた百花屋か? 二日連続だな……」
今度は祐無が顔をしかめた。
相沢財閥の御令嬢としてお金には不自由していないものの、流石にポケットマネーまでは一般の高校生の少し上程度でしかない。
一日前にジャンボミックスパフェDXを注文してばかりの祐無の懐は、その一般の高校生と比べても寂しいくらいだった。
まだ月初めだというのに、また百花屋に行ってしまうと今月の生活が厳しくなる。
「あそこはだめよ。今日も月宮さんがいるんでしょ?」
「ああ、そのはずだ」
「だったらだめね」
しかし香里は百花屋案を却下したので、そんな祐無の心配は杞憂に終わった。
名雪たちには「相沢君に誕生日を祝ってもらう」と言っておいた香里だったが、その本心は別のところにある。
香里の知っている“祐一”ならば、自分が生まれたときの悲劇くらいのことなら、「ただの偶然だ」だの「仕方がないことだ」だのと言って一蹴してしまうはずだった。
そうでなくても、誕生会のその場では気まずそうな顔こそすれ、家に帰ってまでそれを引きずるような人格の持ち主ではなかった。
だから香里は、祐無が落ち込んでいた本当の理由を聞き出してから――――事と次第によっては、今度は逆に自分が胸を貸してやってもいいとまで考えていた。
しかしそんな場面、百花屋のような公共の場で見せられるはずがない。
それに香里が聞きたい話の内容も、彼女の予想では名雪の父の死以上の“何か”であるはずだった。
それを聞き出すためには、人気のない、他の誰にも聞かれないような場所が好ましい。
そんな場所、高校生の香里には一ヶ所しか思い浮かばなかった。
「放課後に掃除が終わるまで、教室で待っててもらえる? そこでいいわ」
「了解。ただ待ってるだけでいいんだな? 覚えとく」
「ええ、よろしく頼むわ」
――――なんてことがあったのが昼放課の終わりごろ。
あれからたったの二時間しか経っていないというのに、祐無はその約束を忘れているのではと思われていた。
だが、実際にはしっかりと覚えている。
その証拠に祐無は放課後になっても教室に残っていたし、香里もそれを知っていた。
しかし。
「なんだ、相沢はまだ寝てるのか? もう教室の掃除は終わっちまったぞ」
机に突っ伏して眠っているのだ。
面白そうだからという理由でそのままにしていた掃除当番たちも、掃除が終わる頃にはただ呆れるしかなかった。
ちなみに本日最後の授業は担任の教科で、帰りのHRも含め、淡白なことで知られる石橋教諭は祐無を起こしたりはしなかった。
「仕方がない、起こすか」
掃除用具入れの扉を閉めてから、掃除当番の直哉が、祐無を起こそうとして彼女の席に近付いていった。
「あ、いいわよ斎藤君。相沢君にはちょっと用事があるし、あたしが起こすから。鍵もあたしが閉めておくわね」
「あ……いいのか?」
「言ったでしょ? あたしは相沢君に話があるの。起こすのはそのついでよ」
それを制止したのは香里だった。
彼女にもわざわざ自分が名乗りを上げてまで祐無を起こす義理はないのだが、そんなことよりも、クラスメイトには早く教室から出て行ってほしかった。
でなければ、祐無は絶対に胸の内を話してくれないだろうから。
「じゃあよろしくな、美坂。また明日」
「ええ。部活がんばってね、斎藤君」
香里の言葉に素直に納得し荷物を持つと、直哉は走って教室から出て行った。
名雪と同じで運動部の部長ということもあり、部活に遅れたくはないのだろう。
香里は斉藤の後姿を見送った後、両隣の教室に誰もいなくなるまでしばらく待ってから、ようやく祐無を起こすべく声をかけた。
「相沢君、起きなさい」
「うにゅ……」
肩を軽く叩きながら声をかけてみても、祐無は名雪そっくりの声を出しただけで、まだ起きるような素振りは見せなかった。
(相当深く眠ってるわね……これじゃ、まるで名雪じゃない)
流石はいとこね、と納得してみせてから、彼女は根気よく、もう一度肩を揺さぶってみる。
これが名雪や潤だったら思いっきりひっぱたくか、頭を持ち上げて机に叩きつけるくらいのことをしてみせるのだが、祐無が相手ではそうもできなかった。
知り合ってからまだ日が浅いというのもひとつの理由だが、なんとなく、祐無相手には無茶ができない。
何故だかわからないが、香里にとって、“相沢祐一”とはそういう雰囲気を纏わせた人物だった。
名雪や潤に気が付けるはずもないが、香里には分かっていた。
潤や直哉と一緒に馬鹿をしてるように見えて、その実、祐無の心は彼らと完全には溶け込めていない。
自分はこの人とは違う。そんな風に、祐無自身でも無意識の内に、皆との間に距離を置いている。
香里にもそうしていた時期があったから、彼女にだけは、それが気付けていた。
「ほら、いい加減に起きなさい! 今何時だと思ってるのよ!?」
肩を揺らしても起きない人間なんて、香里は親友以外に知らなかった。
祐無は普段から「オレは名雪と違って寝起きはいいんだ」と言っているが、実際はそれは祐一の話であって、当の本人はそのまったくの逆だ。
祐無本人や名雪から聞いている話とまったく違う現実に、香里は少なからず腹を立てていた。
しかし、眠っている祐無にそれがわかるはずもない。
ただただ、寝言をのたまうだけだった。
「ん……おかあさん? あとごふん……」
「誰があなたのお母さんよ!? 寝ぼけてないで、早く――――」
「そうだよねぇ。おかあさんはいま、ゆういちたちといっしょにかいがいにいるんだもん……」
「なに言ってるのよ、あなたは。祐一はあなたでしょう? 寝言はいいから早く起きなさい」
「んふふ……でもねかおり、わたしは――――」
言ってる最中で、祐無は完全に目を覚ましたようだった。
途中で言葉が止まって、一瞬にして全身が強張ったのが分かる。
ガバッ、と仰々しい音を立てて起き上がり、目の前の香里を見てだらだらと脂汗を掻きはじめる。
「――――なんでもないよ。……うん、なんでもない」
とりあえず誤魔化してみせてから、その口調が不適格であることに気付く。
「あの……相沢君?」
「は、はいっ! なんでしょう!?」
「相沢君が今海外にいる、ってどういうこと? 『わたしは』……なに?」
香里が、祐無の言動を不審に思わない理由はない。
この街に来てからの二ヶ月で演技に自信がついてきた祐無だったが、寝ぼけているときはそうもいかない。
「わ、わたくしめがそのようなことをもうしましたでしょうかっ!?」
「ええ、確かに言ってたわよ。寝ぼけてたけど。……ひょっとして今も寝ぼけてる?」
「めめめ滅相もございませんっ!」
錯乱して祐無が敬語になっているのを見て、香里はますます不審に思う。
目の前のこの“男”が言うように、祐一が海外にいると仮定したら。
この男は祐一ではないということになるが、だとしたら名雪や秋子が気付くはずだ。その線は薄い。
しかしそれでも、もし、仮に万が一、ありえないことに目の前のこの人が祐一ではないとしたら……。
この人はいったい、何者だというのだろう?
持てる頭脳のすべてを総動員して、香里はこの状況を分析しようとしていた。
「……」
「…………」
同様に、祐無も寝起きの頭脳をフル回転させている。
まずい。やばい。どうしようもない。
香里にはもう、自分が祐一ではないということを気付かれているかもしれない。
まだ確信にまでは至っていないかもしれないが、それでも鋭い香里のことだ、このままでは確実にばれてしまう。
だったらどうすべきか?
荷物を持ってさっさと逃げ出そう――――だめだ、余計に怪しまれる。
逃げ場なんてないんだ。なんとかしてやり過ごすか、丸め込むしか手はない。
今ならまだ間に合うというのに、錯乱状態にある祐無には『話題を変える』という逃げ道を見つけられなかった。
「ずいぶん錯乱してるのね」
「……寝ぼけてたんだ」
言い訳が苦しい。
香里は勿論のこと、言った本人の祐無でさえそう思った。
「そうかしら、なんだか辛そうだけど。脂汗もびっしり」
「そんなんじゃない。ただの寝汗だ」
やはり苦しい。
今回もまた、お互いがそう思った。
祐無も自分から話を切り出して話題を切り替えればいいというのに、今は完全に腰が引けている。
香里が何かとてつもなく怖いものに思えてきて、自分から話しかけることすら、できるような気がしない。
「相沢君のご両親は確か、二人揃って海外に行ってるのよね?」
「ああ、仕事の都合でな」
香里が、解決の糸口を突き止めた探偵のように言う。
彼女はさっき、祐無から「お母さんは今、祐一たちと一緒に」と聞いてしまっている。
その寝言を信じるならば、目の前にいるのは相沢祐一の兄弟か何かだということになる。
だとすれば当然容姿も似ているだろうし、名雪や秋子の目を誤魔化すのも可能だろう。
しかし、名雪からは祐一に兄弟がいるという話は聞いたことがない。
散々いとこの話を聞かされたにも関わらず、だ。
ただ、目の前の“祐一の兄弟かもしれない誰か”がいとこの名雪にすらその存在を知られていないのだとしたら、この人が誕生日を嫌っている理由も、どうにか説明がつくかもしれない。
祐無にとって幸か不幸か、香里の頭脳は優秀だった。
「それで、相沢君だけが日本に残って、名雪の家に居候することになったんだったわよね?」
「……ああ」
そして祐無はすでに、覚悟を決めていた。
香里に両親のことを訊かれて、次は祐一のことを。
自分が相沢祐一ではないということがばれたと判断するには、十分すぎる状況だった。
本来の冷静さを取り戻した祐無は、もうこの危機を回避する手立てはないと知って、すでにその後の対応策を考えはじめた。
香里に嫌われないように事情を説明するにはどうすればいいのか?
すべてを話し終えた後、香里はそれを黙っていてくれるだろうか?
もし自分が女であることが知れ渡ってしまったら、いったい自分はどうなってしまうのか?
香里以上に頭の良い祐無は、心の中で両親に懺悔していた。
「それなのにどうして、そのあなたがお母さんと一緒に海外にいるのかしら?」
「……もういいや、降参。他に、何か質問はある?」
祐無の顔つきが、急に変わった。
ついさっきまでの追い詰められた鼠のような態度から一変して、自分を追い詰めた猫を評価するような態度になっている。
香里はその様子を見て、あっさりと自分の推測を事実として受け入れた。
たとえ目の前の“男”が相沢祐一でなかったとしても、自分を救ってくれたのがこの人であることには変わりがない。
栞や名雪のことを思えば胸が痛むものの、彼女自身にとって、それはどうでもいいことだった。
自分を救ってくれた“祐一”に関して言えば、それでもあなたは友達なのだと、胸を張って言えるから。
「あら、よかったの?」
「なにが?」
「だって、きっと秘密なんでしょう?」
「うん」
「だったら、どうして?」
「悪あがきは好きじゃないから」
「……そう」
二人の間に、微妙な空気が流れる。
そして次に口を開いたのは、祐無の方だった。
「あ、そういえば。放課後に話があるって言ってたの、あれ何? できればそっちを先にしたいんだけど」
「ああ、それね……。あなたが誕生日を嫌う理由が、他にもあるんじゃないかと思って。
できることならそれを聞き出して、あたしもあなたを救ってあげられたらなって考えてたのよ」
「うわ……そんなところからもうばれちゃってたのか……」
祐無はすこしショックだった。
名雪と栞は当然のこと、潤にだって本心を隠し通せたと思っていたのに、香里だけはそうならなかったことに。
「寝言のことがなくっても、これは、時間の問題だったかな」
悔やむようにではなく、何かを悟ったように祐無が言った。
そしてもう一度その態度を切り替えて、いつもの“相沢祐一”に戻る。
「さて、香里。その辺の理由も含めて、全部話すよ」
「えっ? あ、うん……でも、本当にいいの?」
「ああ。覚悟を決めよう……お互いに」
香里はというと、祐無の豹変ぶりにただ唖然とすることしかできなかった。
祐無は香里の秋子と同じ反応を見て、苦笑いを浮かべた。
「オレには、双子の姉がいる。名雪も秋子さんも知らないんだけどな」
「え……秋子さんまで?」
「そうだ。それどころか、オレと両親以外は誰一人として姉さんのことを知らない」
「……もしかして、生まれたその日に死んじゃったとか……?」
祐無が誕生日が嫌いだという事実から、香里はそう予想した。
叔父だけならともかく、自分の双子までその日に死んでしまったら、誕生日なんて祝ってられないだろう。
たったそれだけのことからその結論にまで辿り着いた香里の頭脳に、祐無は内心で、素直に感嘆していた。
「その通りだ。正確には殺されたんだけどな、父さんに」
「え? そんな、自分の子供を殺すなんて――――」
祐無は思いのほか、今のこの状況を楽しんでいた。
やはり彼女も女なので、秘密のことを話すということが好きなのかもしれない。
ただ、その話しかたには問題があるのだが。
「って言っても、社会的にだけだけどな。生まれた子供が双子だったことすら隠して、生まれたのはオレだけってことにしたんだ。
だから当然出産届けも出してないし、戸籍もない。学校にも通わせずに、屋敷から出ることすら禁止されていた」
「なんだ。そういうことなら先に言ってよ、人が悪いわね……ってちょっと待って、屋敷?」
「そう、屋敷。それがどうかしたか?」
「相沢君の実家って、ひょっとしてお金持ち?」
「あれ、名雪に聞いてなかったのか? オレ、相沢財閥の御曹司なんだけど」
「聞いてないわよ!! なによそれ!?」
「む……そうか。すまなかった、オレはてっきり、もう皆知ってるものだと」
これには香里も祐無も、両方が驚いていた。
相沢財閥はこんな片田舎の住人ですら知っているほどに有名なのだが、まさか苗字が同じだという理由だけでは、誰も祐一がそこの御曹司だとは思わない。
祐無は祐無で、『同い年のいとこの男の子と一緒に暮らす』ということまでクラスのみんなに喋っていた名雪が、まさかそんな重大なことを話さずにいただなんて、考えてもみなかった。
実際は名雪ですらその事実を知らなかったからなのだが、それこそ祐無は夢にも思っていない。
「ま、まぁそれはそれとしてだ。相沢家には、不吉な言い伝えがあってな。
男女の双子が生まれると、その女の子の方は災厄をもたらすと言われている。
あの関東大震災でさえ、相沢家では双子の女の子が原因だと思ってるらしい。
オレの祖父の姉にあたる人なんだけどな、その本人もその地震で亡くなってるんだそうだ」
「それはまた……ずいぶんとありがちな言い伝えね」
「否定はしない。っていうかできない。
とにかく、つい最近にそんな前例があったばかりから、父さんもなんとかしなきゃって思ったんだと思う。
姉さんの存在を徹底的に隠して、社会的に抹消したんだ、完全に」
「それで、そのお姉さんというのがあなたなのね?」
「その通り。私の出生そのものが呪われたものでしかないから、どうしても誕生日って好きになれないのよね。ただ妬んでるだけなのかもしれないんだけど」
またしても祐無の態度が一変して、いつもの男らしさが消え去った。
今の彼女は完全に、自分の地を香里にさらけ出している。
「名前だって、『祐一では無い』って書いてユウナなのよ? 昨日はどうしても自分とあなたを比べちゃって……ごめんなさいね」
「いいわよ、べつに気にしてないし。それよりもあたしは、こうしてあなたのことを聞けたことが嬉しいわ」
香里はそう言うと、祐無に優しく微笑んだ。
祐無はそれに、照れ笑いで返す。
「どう? あたしに話して、少しは気が楽になった? あ、心配しなくても大丈夫よ、このことは誰にも言わないから」
「ありがとう。でも残念ながら、昨日の夜に秋子さんに話したから。香里は一人目じゃないの」
「なーんだ、そうなの。でもやっぱり、秋子さんに言うのと友達に言うのとでは、だいぶ違ったんじゃない?」
「そうかもね」
「でしょう?」
そう言うと二人は、女の子同士として、初めて一緒に笑いあった。
「とにかく、これからもよろしくね、祐無さん。……あ、この名前は嫌いだったかしら?」
「今はもう大丈夫だよ、お父さんもちゃんと愛してくれてるし。あ、それと、さん付けはナシってことで。香里」
「そうね。そうするわ、祐無」
よろしくね、と香里に右手を差し出されて、祐無はそれを握り返した。